昨日、「テロール教授の怪しい授業」について書きました。この話の主題の一つは、「自分はそんなことしない」という考えが危険だということと思うのです。
そこでふと思い出したのが、炭治郎が妓夫太郎の首に刃を当てた時のことで。
その境遇はいつだって
ひとつ違えばいつか自分自身も
そうなっていたかもしれない状況
と彼は考えるのです。鬼を倒すことを心に決めながら、自身も鬼になっていた可能性を認識できる、というのはまさにそれかなと。家族を失って尚、です。
もう、どうやったらそんなマインドでいられるのでしょう。家族との幸せな時間が炭治郎と禰󠄀豆子を守ってくれているのかもしれないです。それは美しい因果だ、と思いながら。